【京都 廬山寺】 明智光秀が念持仏に込めた想いとは?
2021/06/19
今回は、京都の蘆山寺を紹介します
蘆山寺の正式名称は廬山天台講寺(ろざんてんだいこうじ)といいます。
廬山寺は、良源(慈恵大師)によって938年に、船岡山の南麓に創建ましたが、室町時代に応仁の乱で焼失してしまいました。
1571年、織田信長の比叡山焼き討ちに遭遇しますが、正親町天皇の勅命により蘆山寺は免れ、現在地の紫式部邸址に移転しました。
廬山寺は、紫式部が源氏物語を描いた場所です。
この蘆山寺には、織田信長の焼き討ちを免れたご縁から、明智光秀が陣中においても日々礼拝されていたという念持仏が保管されています。
念持仏は、桃山時代に制作されたもので、向かって右側に不動明王立像、左側に毘沙門天立像、そして中央に地蔵菩薩坐像が安置されています。
明智光秀が、戦いの時に必ず、中央の地蔵菩薩のみが持ち運ばれ礼拝していました。
大きさは、18㎝ほどで、携帯できる小型の仏像です。
普段は、明智光秀の念持仏は、秘仏なので一般公開されていませんが、期間限定で公開されることがあります。
今年は2/11~11/30まで、特別展『明智光秀の念持仏と蘆山寺展』が開催されていますので、私も見に行ってきました。
蘆山寺に到着し、山門から入り先ずは正面にある大師堂をお参りしました。
大師堂は、元三大師(良源)、毘沙門天、薬師如来、不動明王、如意輪観音などを祀っています。
そして、右側にある建物、本堂・社務所へ行きました。
こちらに明智光秀の念持仏が安置されています。
拝観料、大人600円が必要です。
拝観料を払い、先ずは御本尊、阿弥陀三尊が安置されている本堂をお参りしました。
本堂の向かいには源氏庭ありました。
源氏庭は有名で、庭には白砂が敷かれていて、とても風情があります。
眺めているだけで、心落ちつく感じです。
源氏物語に出てくる朝顔の花は、今の桔梗のことだともいわれていて、庭には紫式部に因んで紫の桔梗の花が、綺麗に咲いていました。
桔梗の花の見頃は、6月から9月末だそうです。
また明智家の家紋も桔梗ですよね(^^)
しばらく、源氏庭を眺め、そして本堂の横に安置されている明智光秀の念持仏を見に行きました。
地蔵菩薩は命を育む大地のパワーを秘めています。
私たちは、地蔵菩薩の前で合掌し、お参りしました。
ネットで画像を見た時も感じましたが、この地蔵菩薩は、とても強力な不動のパワーを放っています。
大地の揺るぎない力・・・
明智光秀は、毎日この地蔵菩薩像を礼拝していたんですよね。
地蔵菩薩像は、本能寺の真実を知っていらっしゃるのですね。
なぜ明智光秀は、地蔵菩薩を守護とし信仰していたのでしょうか?
お地蔵さまの意味を調べてみました。
お地蔵さまはサンスクリット語でksitigarbha(クシティガルバ)というそうです。
クシティは「大地」という意味で、ガルバは「胎内」「子宮」の意味があり「大地の母胎=お地蔵さん」だそうです。
また、お釈迦様が亡くなられてから、仏がいなくなり、56億7000万年後に現れるといわれる弥勒菩薩さまが、この世に出現するまで、無仏時代の救済をしてくださるのが地蔵菩薩だと言われています。
地蔵菩薩は、地獄をはじめ六道を回り、閻魔大王などの、さまざまな姿に代え人々を救済してくれるそうです。
弥勒菩薩が現れ弥勒の世になるまで、人間の世界を救う役割を担っているのが「地蔵菩薩」です。
地蔵菩薩は、地獄に落ちたものを救う仏でもあります。
また仏教においては、地蔵菩薩と閻魔大王は同一視されているようです。
閻魔大王は、地獄の主として死者の生前の罪を裁く役割があると言われています。
閻魔大王は、時には優しく、時には厳しい方なんでしょうね。
明智光秀の念持仏からも、優しい波動と厳しい波動を感じました。
そして繋がってみると、妙に心が落ち着き、中庸の状態になります。
心身ともに乱れやすい戦国時代、
明智光秀も、毎日地蔵菩薩像を礼拝し、乱れる心を落ち着かせ、中庸(ちゅうよう)をとっていたのではないでしょうか。
(中庸とは、かたよることなく調和がとれている状態で、本来あるべき姿のことをいいます)
人間の心と体が中庸の状態を保つと、宇宙と繋がります。
この地蔵菩薩像を間近で見ていると、命を大切にし、領民の幸せを願う光秀の強さと優しさが伝わってきます。
明智光秀は京都の福知山や亀山では、その功績が残っており慕われています。
福知山城の記事
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一方、一般的には本能寺の変で君主織田信長を討ち、その後すぐに豊臣秀吉に討たれ、三日天下としての印象が強いと思います。
廬山寺で明智光秀の念持仏を拝観して、以前に閻魔大王=地蔵菩薩と繋がったときに感じた「正直に生きる」ということを思い出しました。
今回もこのメッセージを強く感じました。
織田信長も明智光秀も、正直にに生きたのでしょうが、何が違ったのでしょうか・・・
たぶん、自我と真我の違いだと思います。
お二人ともかなり高い霊的な能力を持っていたと思いますが、織田信長のほうは途中から自我で正直に生きてしまったのでしょう。
一方、明智光秀は自我を真我に合わせ、天と繋がり生きていたのだと思います。
明智光秀が求めたのは皆が平和の暮らせる世界です。
命を大切にする戦のない世界です。
途中から、自らの天下取りを優先する織田信長と、明智光秀とでは国造りの違いが明確になり、方向性が合わなくなってしまったのでしょう。
最後は、織田信長の天下取りへの暴走を止めるために、仕方なく本能寺の変を起こしたように思います。
織田信長と明智光秀は、魂的にも深い繋がりがあり陰陽の関係だったのでしょう。
そして、色々な歴史上の出来事を経て今、私たちは現代を生きています。
戦国時代も現代も、平和を求める人間の気持ちは一緒です。
私は今何をすべきか?
念持仏に詰まった明智光秀の平和への想いを受けて、争いのない平和な国造りの1コマとして、些細なことでも良いので、何かできればいいなと思いました。